日本独特の情念などを歌い上げる音楽ジャンル「演歌」。年末の音楽賞や紅白歌合戦などで“誰もが知る大物演歌歌手”を観たという昭和生まれは多いだろう。その中でも両巨頭とされる村田英雄さんと三波春夫さんは、「犬猿の仲だった」という噂とともに語られることが多い。義理人情や男の度胸を歌い上げる村田さんと、お茶の間が笑顔になるような国民歌謡を目指した三波さん。性格も正反対だったという2人は本当に不仲だったのか?

(「新潮45」2006年6月号特集「昭和史 13のライバル『怪』事件簿」掲載記事をもとに再構成しました。文中の年齢、年代表記等は執筆当時のものです。文中敬称略)

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ともに前身は浪曲師

 吹けば飛ぶような将棋の駒に……。

 昭和37年、150万枚を売り上げ、戦後初のミリオンセラーとなった村田英雄の「王将」。幼児までが、彼のドスのきいた節回しを真似ていたくらいだから、歌手の付き人が、鼻歌交じりに口ずさんでいたとしても不思議はない。

 だがその歌手というのがあいにく三波春夫。で、三波の逆鱗に触れて付き人はたちまちクビになった、といううわさがあるくらい、2大演歌歌手、三波春夫と村田英雄のライバル意識はすさまじかったといわれる。

 確かに、2人の抜きつ抜かれつのシーソーゲームはおもしろい。

 三波も村田も前身は浪曲師である。だが、13歳で真打ちとなり酒井雲坊を名乗った村田の方が、南条文若として浪曲界入りした三波より先輩で、格も断然上だった。しかし、歌謡界入りは三波の方が1年早く、昭和32年、「チャンチキおけさ」でデビュー。張りのある高音の美声でいきなりの大ヒットとなった。

 一方、村田は、歌謡界の大御所、古賀政男がその渋味のある男声に惚れ込み、昭和33年に「無法松の一生」でデビュー。しかし、出した当初は鳴かず飛ばず、5年目にしてようやく、「王将」のメガヒットに恵まれ、レコード大賞特別賞を受賞した。

いつの間にか「宿命のライバル」に

 歌謡界へのデビューもヒット曲を出したのも三波が先だったが、レコード大賞受賞は、村田に先を越されたのである。三波が「東京五輪音頭」でレコード大賞特別賞に輝いたのは昭和39年のことだ。

 三波の好んだのは、先の「東京五輪音頭」、大阪万博のテーマ曲「世界の国からこんにちは」に代表されるように、みんなで歌える国民歌謡であり、キンキラに明るい舞台が持ち味。「お客様は神様です」は流行語にもなった。かたや村田は、義理人情や男の度胸など、どちらかといえば暗い浪花節の情念の世界を豪快に歌い上げた。

 この対照的な2人が、いったい、いつ何がきっかけで、宿命のライバルと言われ始めたのかは定かではない。

 しかし、昭和39年から45年まで、「月刊平凡」の編集長を務めた斎藤茂氏によれば「四十年代に入ると、二人が犬猿の仲だという噂が我々にもよく聞こえ始めました。同じ月に公演が重なると、三波側は『うちの歌舞伎座の方が入場料が高い』と自慢する。すると村田側は『歌はゼニで聴かせるものじゃねエ』と反発する(中略)、私の耳にも、そんな話がイヤというほど入ってきました」(「文藝春秋」平成3年2月号)と証言する。

テレビ初共演で互いにそっぽを向く

 他にも不仲を物語るエピソードには事欠かない。たとえば、昭和37年の村田の「王将」30万枚突破記念公演で、三波は羽織袴の正装で村田の舞台に上がり激励した。ところが、今度は村田が、三波の歌舞伎座公演に返礼の陣中見舞いをした時のこと。そのいでたちがアロハシャツにサングラスだったというので、三波が激怒したという。

 かと思えば、こんな逆のケースも。村田が三波の公演にお祝いの薬玉を贈った。と、どうしたことか、劇場に並べられた薬玉には、「三波春夫賛江、村田英雄より」と記した木札がはずされていた。村田側が、「失礼なことをする」と憤慨すれば、三波側は「いや、うちはそんなことはしていない」という具合。

 2人がテレビの歌番組で初共演したのは昭和39年3月の「ロッテ歌のアルバム」だが、この時も、ラストの乾杯シーンで互いにそっぽを向き、関係者をあわてさせた。以来、紅白歌合戦の楽屋で顔を合わせても知らんぷりだったとか。

 2人の性格、生き方もおよそ対照的だった。村田は大酒飲みで、体を壊しても飲み続け、千人は超えると豪語する女遊びに3億円使ったという武勇伝の持ち主。それに対して三波は、のどを守るために酒たばこは一切やらず、浮いた噂などトンと聞かない、芸能界では珍しいほどの謹厳実直ぶりだった。

2人を握手させた日本興行界のドン

 この2人の対立に“雪解け”が訪れたのが昭和51年10月。日本興行界のドン・永田貞雄が中に入り、突然の手打ちを果したのだ。

 それは、永田の子息の結婚披露宴の席上だった。永田は、共に出席していた三波、村田両人を舞台に招き、2人に向かい、

「あんたたちはどっちも浪曲から出て日本一になった2人なんだから、これからも仲良く手をつないでやっておくれよ」

 と言って、2人を握手させたのだ。

 昭和57年にもNHKの歌番組で手打ちショーを行ない、長年の犬猿の仲も恩讐の彼方かと思いきや、昭和63年になって再び雲行きが怪しくなった。

 ことの起こりは、その前年に、紅白出場辞退を宣言した三波に対し、村田が、「紅白こそ、歌い手の証を示す最高の舞台だ。理由は何であれ、歌っている以上、絶対に出るべきだ。あれでは負け犬と同じじゃないか」と噛みついたこと。

 すわ、ケンカの再燃か? と芸能マスコミは色めき立ったが、村田側は、真意が曲げられて伝えられたと言い、三波側は、「紅白に出るか出ないか、考え方は十人十色。2人の仲は別に悪くない」とかわして、火種を消すのに懸命だった。

暗黙の了解はきちんとついていた

 しかし、本当のところ、2人の仲はどうだったのか、なぜライバル視されるようになったのか。これには、村田英雄自身の解説が的を射ている。

「なぜ、俺と三波がライバルに見られたか、というと同じ浪曲畑から歌謡界へ転進、のケースだからさ。(中略)その上、風貌、性格、雰囲気などの違いも取り上げられる。俺はゴツイ、三波はソフト、といった対比だよ。(中略)八方破れで遊び好きの俺、堅実で蓄財型の三波といった具合だ。酒を飲み、ギャンブルに狂う俺。片方は、禁酒禁煙、ゴルフが趣味で品行方正、落差があるよ。

 女のほうにかけても、決して人後に落ちない俺。堂々と、どこへでも出かけて遊ぶ。三波は、前座の女性歌手との仲が怪しい、と噂が出たとたんに、『そういう噂の出るのは、わたしの不徳です』。即座にその歌手をクビにしたんだよ。エライ……。俺なら、『そうか、でも、俺のタイプじゃない』。そういって、平気でそのまま前座を務めさせるよ。ワハハハハ。(中略)

 ま、そういうことで、俺と三波は犬猿の仲のライバル、というのが世間の通り相場になったんだ。だがね、ふたりは、全然そんなことはない。大笑いしながら、『どうぞ、どうぞ、いわせるものにはいわせておけばいい』。暗黙の了解はきちんとついていたんだよ」(双葉社「週刊大衆」平成5年4月26日号)

わだかまりなんてありえない

 三波の長女で「三波クリエイツ」社長の八島美夕紀さんも、「2人の間にわだかまりなんてありえない」と言う。

「村田さんは、私の母を昔から知っていて、『ねえさん、ねえさん』と気さくに呼んでくれた。歌手というのは自分のオリジナリティを確立して生き残るのに必死で、舞台で3センチ横に誰が立とうが、気にしている余裕もないんです。確かに売り出す側とすれば、『2人は好敵手だ』とした方が話題性がある。周りの戦略が2人をライバルにしたんでしょう」

 些細なことで目くじらを立てるには、2人とももはや、大物になりすぎたということもある。

三波に先立たれると「寂しいなぁ」

 その晩年も全く対照的だった。三波は、親交のあった永六輔が、「歌う学者」と呼んだほどの勉強家で、平成10年には『聖徳太子憲法は生きている』(小学館)という本も出版。

 かたや村田は、ビザ申請の性別欄に堂々「週3回」と記入したとか、飲み屋に行って「おい村田だ! ボルト出せ!」と言ったとか、2人が共演する舞台で「三波は上手から、村田は下手から登場」という指示書きを見て、「どうしてオレがヘタなんだ!」と怒ったとか、天然ボケの“村田語録”がバカ受けして、一躍ヤングの人気者となった。だが、糖尿病の悪化でついには両足を切断。

 それでも意気軒昂だったが、平成13年4月、77歳の三波に先立たれると、「何となぁ、寂しいなぁ」と絶句。

「おれが右足を切断した時に心配して電話をかけてきてくれた。彼の活躍がおれには刺激であり励みだった。全然、犬猿てなもんじゃないよ」

 そう言っていた村田英雄も、三波の後を追うように、翌平成14年6月に73歳で他界。本物の芸人魂が息づいていた昭和という時代の型破りのライバル譚である。

福田ますみ(ふくだ・ますみ)
1956(昭和31)年横浜市生まれ。立教大学社会学部卒。専門誌、編集プロダクション勤務を経て、フリーに。犯罪、ロシアなどをテーマに取材、執筆活動を行っている。『でっちあげ』で第六回新潮ドキュメント賞を受賞。他の著書に『スターリン 家族の肖像』『暗殺国家ロシア』『モンスターマザー』などがある。

デイリー新潮編集部